てふてふが往く

ゲーム脳とかその他諸々

 

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ゲーセンに代わるゲーマーの社交場を考える 

先日、行きつけの某ゲーセンが潰れたという誤報ツイートが新潟アーケーダーをちょっぴり騒がせた。
誤報だったから良かったとは思ったが、同時に

「もし本当にあそこが潰れたら新潟市内のゲーセンゲーマーはどこに行けばいいんだ?」という疑問が頭をよぎった。

某笹口店が無くなったらあとはカ○コサーカスしか無いだろう。しかしあそこは去年度から急速にビデオゲームの撤去が進み、唯一のビデオゲームとなったNESiCA台やALLNet台も今や風前の灯火だろう。



長い前置きはともかく、ゲームセンターは長らく唯一のゲーマー社交場だった。
しかし、現在では家庭用ゲーム機の発達やスマホゲームの台頭で多くのゲームセンターが店を閉じている。

最近はSNSの発達で気軽に見知らぬアーケードの同志とネット上で語らうことができるようになったが、それでも面と向かい合ってリアルに対話することには叶わない(人によるが)。

リアルの社交場の消滅は特に対人メインの格闘ゲーマーにとってゲーム的にも致命的では無いだろうか。

ゲームセンターが無くなるのは非常に憂うべきであるが、僕としてはゲームセンターの業態の本質はインベーダーの頃から変わってない、非常に保守的なスタイルだと考えている。

STGはそこそこのファンでも一プレイ100円で20分前後も居座られてしまう。
格闘ゲームは逆に一試合100円も掛かる。家庭移植版に置き換えれば一瞬で元が取れる値段である。

こんな現状じゃあ流石に大手のゲーセンはビデオゲームを手放してボカロ東方が入った音ゲーやクレーンゲームに頼るわけである。



ではゲーセンに代わるゲーマーの社交場って何ぞやという話であるが、僕はゲーマーカフェを提案する。今回の話は格闘ゲームに限った話であるが、STGなどのジャンルもいずれ盛り込んで話したい。

ゲーマーカフェとは家庭用作品を基本無料でプレイできるが代わりにあくまで「モラル」として店の食べ物を一つ以上頼むというシステムである。

ゲーマーにとって無制限に対戦できてなおかつ格ゲー仲間とだらだらと語り合えるというアットホームな場を提供する。

店側にとっても家庭用ゲーム機はアーケード筐体よりも消費電力が少ないので負担が少ない。

また、現状の風営法では家庭用のゲーム機は対象外だった筈である。もし「ゲームから利潤が発生している」と突っ込まれても「あくまで食事メインで、ゲームはおまけ」という言い訳が効く。
さらに業態は飲食店ということなので欲張ってアーケード筐体を置くにしても「筐体が店舗面積の10%未満」という条件さえ満たせば警察の許可もいらない。



以上、ゲーマーカフェ構想は今回僕が思いついた案だ。
ゲームセンター消滅の危機ではあるが、新たなスタイルのゲーマー社交場のアイデアをほかの人ともどんどん協議して共有していきたい所存である。
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category: ゲーム

人間は生まれる前から文法を知ってる!?生成文法にダウト 

本ブログ初となるアカデミックな記事。あまり長話にならないように気をつけます。

さて、筆者は先日言語学の講義で生成文法なる言葉を覚えた。

生成文法とはアメリカのチョムスキー博士が提唱した理論である。
要するに人間が母語の言語(特に文法)を理解する能力を持っていて、決してゼロからそれを習得しているわけじゃないというそうだ。

さらに言えば、赤ちゃんは「普遍文法」といういわば文法の種を言語を生まれつき脳に持っており、それを芽生えさせることで母語をモノにするというのだ(一度きりで、二語以上芽生えられない)。

例えば、日本語で「学生が二人ビールを飲んだ」と「学生がビールを二人飲んだ」という文が2つあるとする。
日本語を母語とする我々日本人は直感的に前者の文章が文法的に正しいと理解出来る。
果たしてこれは親や先生から習ったものなのか?否、細かい文法を理屈で理解する前から日本語が母語の我々はそれを理解していた、という理屈だ。

そこで私は先生の言う生成文法にダウトを唱えた。

まず、そもそもこの生成文法の理論自体が構文(語順)重視の英語ありきの理論である。
ロシア語を専攻している身としてはこの前提に違和感を覚えるのだ。

※ロシア語などの言語は格変化さえあれば語順を問わない

チョムスキー博士は生成文法の理論を確立する際、ほぼ英語でのみ調査をしたため、ロシア語のような構文が無いに等しい言語をフォローしてなかったという。


もう一つの疑念は、マルチリンガルの場合の「普遍文法」はどうなるんだ?ということである。

※ここで言うマルチリンガルとは、全く異なるいくつかの言語を母語として話せる人のこと。

確かにマルチリンガルはモノリンガルの人に比べて言語の発達が遅いという報告もある。
しかし、文法も語彙も違う二語以上の言語を母語として話せる時点で一度きりであるはずの言語の種という説明と矛盾してしまう。

このようなマルチリンガルの普遍文法の発達をどのように説明するのか?というのが私の疑問だ。


以上のように、生成文法はそのままだとかなり矛盾のある理論だと私は思うのだ。

ロシア語の先生から聞いた話では、この生成文法は西洋でこそ権威があるものの、問題のロシアでは政治的・言語的にイマイチ支持されていないという。
その代わり、失語症になった時の格変化の喪失に関わる研究ではトップクラスなんだとか。


しかし、この生成文法の「人間はあらかじめ言語を覚える機能がある」という部分はいささかエセ科学と棄て切れるものではないと思うのだ。

そこで筆者は「人間の脳ミソは言語に特化した機能を持っているのでは?」という仮説を立てた。
人間の言語習得のプロセスは言語学だけでなく、脳科学を交えなければ説明が付かないという風に思ったのだ(こういう分野を認知言語学というらしい)。


パソコンで例えてみよう。

例えば今までの「ゼロから言語を学ぶ」という発想はBIOSも何もないハードウェアにOSを直接入れようとするものである。

しかし、筆者の仮説である「言語に特化した機能」とはそのBIOSの役割を果たす部分じゃないか、ということである。

脳は文法を知っているに掲載されている言葉を借りれば「…クモが巣の作り方を知っているのと同じような意味で、人間も言語の使い方を知っている」(『言語を生みだす本能』椋田直子訳より)ということである。


実はこの生成文法、機械工学でも注目されているらしく、もしこの普遍文法(筆者の仮説で言えばBIOSに当たる部分)を発見してプログラムで再現できるようになれば自由に言語を操るロボットが誕生するかもしれないと期待されているそうだ。

さらに、言語学的にも人間の言語BIOSを発見できれば人類の言語誕生の秘密のヒントになるかもしれないと注目されているとか何とか。



振り返ってみて、けっこう高圧的な口調なのは承知していますが、この手の話題の際に書きやすいのであえてレポートを意識した口調にしました。すみません。


今回はここまでです。ご精読ありがとうございました。

category: 雑記

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